第八話『過去の遺産』
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夏の日差しが照り付ける上野公園の高台に、大きな溜息をつく少女がいた。目の前には世界的な大都市となった帝都東京が広がっている。
「・・・・・ふえええええ広ーーーい。帝都ってこんなに広かったんだ。写真で見たのと段違い。ほんと素敵な街ねぇ、帝都って。ただ・・・・この暑ささえなんとかしてくれたら・・・の話だけど」
少女は遥か遠くにまで広がる帝都に、驚きの声をあげた直後、一転して夏の日射しにうんざりした。憧れの帝都に来たものの、故郷とはくらべものにならない気温の高さが、楽しさを半減させていたのだ。
「まぁ、愚痴をこぼしたところで、変化があるわけでなし。とっとと用事をすませて、銀座に行きますか」
なんだかんだと、文句を言いながらも、少女は元気をふりしぼって、階段を降りていく。
この少女は、帝都に住む若い女性には珍しくなりつつある、純和装で身を固めていた。長い黒髪は綺麗に切り揃えられ、白い肌の面(おもて)には、形の良い目、鼻、口が絶妙な位置に配置されている。まるで日本人形のような面立ちだ。青紫色の小袖が少女の美しさをより強調させている。
少女は、階段を降りきると、ふと立ち止まり。空を見上げ呟いた。
「大帝國劇場か・・・・・ふふふ、いきなり行ったらびっくりするだろうなぁ」
口元に、少し意地の悪い笑みが浮かぶ。
「あの娘の驚く顔が目に浮かぶわ・・・・ね、吉野」
少女は、再びゆっくりとした足取りで歩いて行った。
頭上には、夏の日差しが、一番高い位置に差し掛かろうとしていた。
今年の帝都は、7月半ばから気温が急に上がり始め、ここ数日のうちに昨年の最高気温に迫る勢いとなっていた。その理由として、春の異常気象の影響と、蒸気機械の急激な増加が気温上昇の原因だとする意見が出ている。
10年前に蒸気機関の排気制限が設けられ、最初の数年間は技術の向上も手伝って、蒸気指数も下降し続けていたのだが、能力向上と排気制限のバランスが次第に崩れはじめ、再び蒸気指数上がり始めたのである。増える蒸気機械に対し、個々の蒸気量の軽減が追い付かなくなっているのだ。
そして、その影響により、銀座界隈は帝都でも一、二を争う高気温地帯とかしていた。当然、銀座のど真ん中に位置する大帝國劇場は、猛暑による不快指数が激増し始めていた。
「なんとかなりませんの春蘭。こう暑くては、のんびりくつろぐ事もままなりませんわ」
最初に愚痴をこぼしたのは麗華であった。急に訪れた猛暑で、かなり神経質になっているようだ。
「まったくだぜ。同じ暑さでも沖縄の暑さと違って、帝都は蒸し暑いからかなわねーよ」
センカも、大帝國劇場の文字が印刷されてある団扇で、胸元をあおぎつつ言った。完全にだらけモードに突入している。
「そないな事いわれてもなぁ。蒸気冷房機も限界いっぱいなんや。これ以上稼動率上げるとオーバーヒートおこしてまうで。そないな事になってみぃ、蒸し風呂状態になってしまって地獄見るだけやで」
春蘭は、冷やした麦茶をコップに注ぎながら返答する。彼女も暑さでバテ気味になっており、元気がない。大帝國劇場には帝都でもトップクラスの蒸気冷房機が備え付けられていたが、猛暑による影響で効果が低くなっているのだ。帝劇内は、広い空間が多いため冷え難い。という構造上の問題も、冷房が効かない理由の一つである。
「でしたら、わたくしの部屋だけでも、もう少し冷房を効かせていただけませんこと。暑くてなかなか寝付けませんの。日々の安眠を損なっては、わたくしの美貌に悪い影響が出ないとも限りませんでしょう?。そうなったら、帝劇、いえ世界にとって大きな損失になってしまいますわ」
そう言う、れいかの言葉に反応したのは、毎度毎度のセンカであった。
「何ふざけた事言ってやがんだよ、このウニ女!。テメエの部屋だけ涼しくしようなんて虫がよすぎるんだよ。それに、何が日本にとって大きな損失だぁ。テメエの顔なんざ、目の下にクマができるくらいが丁度良いんだよ」
「誰がウニ女ですって!」
「本当の事を言っただけじゃねえか。紫色してトゲトゲしてる所なんてそっくりじゃねーか」
センカの言葉に、れいかは椅子から立ち上がり、センカを睨み付ける。いつものパターンながら一触即発の状況を征したのはローズであった。
「二人ともいい加減にしなさい!。幼いシーリス達が文句を言わずにいるのに恥ずかしくないの」
ローズの言葉に、二人はしぶしぶと引き下がる。流石にシーリス達を引き合いに出されると、大人しくせざるをえない。
「しっかし、シーリスとフローナは元気やねぇ。この暑い中、睦月はんらと買物に行っとるんやろ?。ウチには、よう真似できへんわ。中國やと、ここまで暑うなる事あらへんさかいなぁ。ローズはんもそう思うやろ?」
「そうね、わたしの祖國も暑くなる事はほとんどないから、帝都の夏は正直辛いわね。周防も調子を崩してしまったし・・・・」
そうローズは言うが、その表情からは辛そうな感じは見受けられなかった。たんなるやせ我慢であるのかは定かではないが、口数が少なくなっている所を見るに、多少バテ気味であるのは確かなようである。
「それで、周防さんの様子はどうなんですか?」
心配そうにローズに尋ねたのは、それまで黙っていた吉野である。比較的暑さに強い体質であったため、平常を保っている。
「駄目ね。完全にバテきっているわ。もともと暑さより寒さに強い方だったから・・・。当分はまともに動けそうにないわ」
ローズは溜息をつきながら言った。
周防は、初めて体験する猛暑で、極度の夏バテにかかっていた。数日前までは長い時間、訓練に勤しんでもなんともなかったのだが、急激な温度差に、先日、急に体調を崩してしまったのだ。今は大事をとって自室で療養中である。当然、冷房は優先的に周防の部屋へまわされ、適温に保たれている。
「食欲の方はどうなんですか?」
「まったく無いわね。でも、食べないといけないのは分かってるみたいよ。食欲が無いと言いながらも、持っていった食事は残さず食べているわ」
「はぁ、周防はんも大変や・・・・・・。ところで、神凪はんの様子はどうなん?あれからほとんど話してないさかい、ちょっと心配しとるんやけど」
春蘭は横目で吉野の方に目をやった。吉野やれいかが神凪に好意を持っていることは、帝劇で知らない者はいない程有名なことだ。しかし、それを喜んだり微笑ましく思う者は少なかった。何故なら一部を除く多くも、神凪に少なからず好意を寄せているからである。
しかし、その中にあって春蘭は、その『多く』に当てはまらない『尊敬はすれども好意にまではいたらない』一部側に立つ人間であった。そのため神凪の様子を気軽に他の隊員に訪ねる事が多々ある。今、吉野に目を向けたのも、最近、神凪と一番仲が良いのが吉野であると踏んでいるからである。
「気にはしてるんですけど、話しづらくて、あたしも殆ど会話らしい会話をしていないんです。何を話していいのか・・・・・・。」
「吉野もか。あたいも隊長とまともに話してないんだよな。だって、あんな話の後だろ、気まずくてよ」
「輪墨さんが元気を取り戻してくれたら、少尉も気が軽くなってくれるのでしょうけれど、今のままではあたくしも声をかけ辛いですわ」
各々が軽い溜息をついた。
「吉野はんでも駄目なんかいな。はぁ、難儀やなぁ。どないしたらえんやろ」
「何か話すきっかけがつかめたら良いんですけど、あたしにはこれといった考えがないですし・・・」
吉野は、気落ちするようにうつむく。
そんな暑い上に辛気臭い雰囲気をローズが崩した。いや、酷くしたといった方が良いだろうか。
「それにしても、少尉にも困ったものだわ。隊長が隊員の志気を下げて、自分も殻に閉じこもってしまうなんて」
最初に反応したのは吉野であった。
「ローズさん言い過ぎです!。神凪さんは辛い思いをしてるんですよ!」
「吉野さんの言う通りですわ。今の発言はちょいと酷いんじゃありませんこと!」
珍しく、れいかが吉野に続いて抗議の声を挙げる。
「わたしは事実を言ってるだけよ。隊長たるもの、どんな状況でも部下を不安な思いに、させたりしてはいけない。上に立つ者の基本的な心得よ。少尉はそれが出来ていない。本来なら、叱責されてしかるべきなのに、何故か米田長官は何も言わないし、あざみさんも『そっとしておきなさい』と言うし。みんな、どうかしているわ」
厳しい目で、堂々と隊長批判をするローズに、センカも腹を立てた。
「だったら聞くがよ。こんな状況にした、そもそもの原因は周防じゃねーか。周防が問いつめなけりゃ、こんな状況にはならなかったハズだぜ。その周防の責任はどうなんだよ。混乱を招いた張本人なんだぜ」
「そ、それは・・・・」
思わず、ローズは口ごもってしまう。周防の行き過ぎた追求は、確かに謹むべき行動だと、ローズも分かっていたからである。
「それに、隊長の心得とか言ってるがよ、ローズは部下の心得ってのを守ってるって言えんのか。今のローズの言葉、軍隊だと上官侮辱になったりするんじゃねーのか?・・・・・・・・よく知らねーけどよ」
頭にきた勢いで、周防を引き合いに出し、ローズを攻めたてたセンカであったが、ローズが顔を背けうつむくと、流石に少し言い過ぎたと思ったようで、最後は言葉がしり窄みになっていった。
暑さでイライラしてる上に、神凪と距離が離れてしまっている事実が、花組に不快なムードをただよわせているのである。ローズにしても、神凪よりも周防が上だと思っているのに、たかが暑さで周防がダウンしてしまった事に少なからずイラだっている。
周防の責任ではないのは分かっているが、どうにも気分をコントロールできないでいるのだ。そのため、神凪に対しての、必要以上に厳しい意見を言ってしまう。
ローズにも神凪の気持ちが分からないわけではない。だが、人間であるがゆえに、気持ちだけはどうしようもないのである。
「まぁまぁ、それくらいにしときーな。口論なんてしとったら、余計に暑苦しなってかなわんわ。それに、今のやりとりが神凪はんの耳に入ったりしたらコトやで?。輪墨はんとの件で、今の花組の雰囲気が良う無いって、神凪はんかて分かっとるハズや。そこに今の会話のこと知ったら、自分が腑甲斐無いばかりにウチらが口論してしまった。って思ってしまうんは目に見えとる。沈んでるところに追い討ちかけるだけやで。なぁ、神凪はんのためにも、ちょっとは自重したったらどうや?」
春蘭の言葉に、一同、口をつぐむ。確かにそのとうりだと吉野達は思った。隊長が沈んでいる時こと、自分達がしっかりしなければないない。争いなんてしている場合ではないのだ。
「わ、わるかったなローズ。あたいもちょっと、言い過ぎちまった」
「いいえ、わたしこそ言葉が過ぎたわ。みんな、ごめんなさい」
「まぁ、わかってくだされば、いいんですのよ。ねぇ、吉野さん」
「は、はい。そうですね。やっぱり口論なんて良くないですよね」
それぞれが、バツのわるい表情をしている。興奮した自分にハジているのである。
春蘭は、そんなみんなを、ヤレヤレといった表情で見やった。
花組の中にあって、花組を一番しっかり見ているのは、意外にも春蘭である。ローズのような神凪へのわだかまりがあるわけでない、周防のようにローズに気をまわすような事もない。又、神凪に対して、仲間としての好意以上の感情を持ち合わせてもいない。そのために、客観的な目で皆を見る事ができるのである。相手の心理を深く考え、感情を読む術を心得ている春蘭は、花組にとって最後の抑えとなる人物であった。
ふと、春蘭は立ち上がり窓へと歩みよった。外の景色に目を移す。
「それにしても、ほんまどうしたらええんやろねぇ。何か帝劇で軽い事件でも、起こってくれたらええのに。ようはキッカケやからね。何かキッカケがあったら、上手くいく様な気がするんよ、ウチは」
この春蘭の言葉は、はからずとも当たる事となる。しかし、そのキッカケが、花組最大の危機をもたらしていく事を、神ならぬ春蘭の知るよしもなかった。
神田に升屋という東京でも屈指の老舗の酒問屋がある。今でこそ、太正12年の黒之巣会による帝都破壊の後に再建された酒屋敷であるが、その創業は古く寛永にまで遡るという。その酒問屋には、全國から有名無名の様々な酒が集まってくる。そんな升屋に、一つの珍しい酒が入ったというニュースが、大帝國劇場の米田支配人の耳に入ってきた。なんでも信州の酒蔵『寒桜』が仕込んだ、夏専用の旨い酒だという。
通常、夏の酒は味が落ちるとされている。得に高温多湿となる東京の夏は、酒をすぐに駄目にしてしまう。そんな理由で、夏は真の酒飲みとって、酒の本当の旨味を楽しめる時期では無かった。
だが、夏に飲んでこそ真価を発揮する酒が存在するという。米田がその情報を得たのは先日の夜、仕事帰りに帝劇によった米田の飲み仲間である、のんだくれの口からであった。升屋がその酒を仕入れて二日もたっているという。
寒桜は小さい酒蔵であり生産料は少ない。其れ故に、一つの問屋に卸せる量はしれている。情報が流れるのが早ければ2日もあれば、売切れもおかしくない。のんだくれは、昼にその情報を仕入れたという。しかし、仕事で夜まで時間の空く身ではない上、明日も早朝から夜遅くまで仕事が詰まっている。そこで米田の元に話をもってきたのだ。『翌日、買いに行って来てくれないか』と。もちろん米田は話に乗った。大酒飲みである米田にとっては、ビッグニュースだ。『よく知らせてくれた。恩にきるぜ』と、のんだくれに言うほどに。
そんな経緯で、今、一人の男が升屋の暖簾をくぐるはこびと、あいなるわけである。
「まったく、緊急を要する重大な任務と言うから何事かと思ったら、酒を買ってこいとは、支配人も人が悪い・・・・まぁ、気分転換になって良かったか」
苦笑しながら神凪近衛は呟いた。左手には、今しがた購入した酒が、風呂敷に包まれてぶら下がっている。
神凪はあらためて周囲を見渡した。確かに外出したのは正解だった。ここしばらく帝劇から一歩も外に出ず、仕事と訓練に明け暮れていた。しかし、それでは一向に気が紛れはないと、目の前の景観を見て、つくづく思った。
立ち並ぶ建物の連なりは、照りつける太陽の下、眩しいほどに輝いて見えた。行き交う人々はには笑顔が溢れ、昨今の魔物騒ぎが嘘の様である。まったく恐れていないわけではないだろう。心の奥底では、不安や怯えがあるに違いない。今、こうしている時に魔物に襲われないとも限らないのだから。しかし、だからこそ今を大事に生きているのだ。と神凪の目には、確かにそう写っていた。
(人々の不安にくらべたら、俺の悩みは小さい事か・・・・・。おまけに、花組のみんなに余計な心配をかけてしまったようだし。まったく、しっかりしろ俺!)
神凪が、心の中で、自分を叱咤していると、ふと、人々が不安気な表情で何かを見つめているのに気がついた。自然と神凪も、その視線の方へと目を向ける。通りの向こうが何やら騒がしい。人々は遠巻きにチラチラと視線を向けつつ歩いていく。
「ちょっと、放してよ!」
色々な音の混じりあう往来において、その声は離れている神凪のもとにも聞こえてきた。若い女性の声である。「すみません。ちょっと通して下さい」神凪は生来の好奇心と正義感からか、すぐさま行動に移す。人込みをかき分け、騒ぎの元へと急いだ。
「いいじゃねーかよ。ちっとくれー、付き合ってくれてもよ〜」
お世辞にも人相が良いとは思えない男達が、一人の女性を取り囲んでいる。皆、鍛えられた体格をしている。その中の一人が、女性の手首を掴んでいた。
「なんで、わたしがあなた達なんかに、付き合わされなきゃいけないのよ!」
女性は屈強そうに見える男達に囲まれていても、怯え一つ見せず、気丈な態度を取っている。神凪が遠巻に見ている人ごみを抜けた時、思わず目を見張った。その女性は。まだ少女といって良い歳格好だったのである。(吉野くんと同じくらいか?いや、少し上かもしれないか?)
「おいおい、そりゃないだろう?そっちからぶつかってきたんじゃないか。おかげで、こいつがすっころんで、大事な服が汚れちまったんだ。詫びとして、少しくらい付き合ってくれても罰はあたらねーと思うがなぁ」
そう言った男の視線の先には、薄汚れた服を来た男が、「あーあ、こんなに汚れちまったぜ」とかなんとか、ぶつぶつ言っている。神凪には、彼等の服装に見覚えがあった。帝國海軍水兵の官給品だ。俗に言うセーラー服である。
『あれって、いつもの連中だろ?』
『ああ、上陸日には、きまって銀座に来て、昼間っから酒を飲んでる水兵達だよ』
近くで誰かがひそひそと話をしている。神凪には会話の中の「昼間っから酒を飲んでる」という言葉がひっかかった。どうやら、酒を飲んで女性に乱暴を働いているようだ。
『まったく、あんな連中をのさばらせているなんて、帝國海軍は何やってんだろうねぇ』
(むっ!)
帝國海軍を悪く言われて黙っていられない。神凪の中に猛烈な怒りが込み上げてきた。しかし、怒りの鉾先は言った者へではなく、目の前の水兵に対してである。
栄光ある帝國海軍の名を貶める狼藉が、目の前で行われているのだ。この現場を目にしては、市民から悪く言われても文句は言えない。もっとも、帝國海軍に身を置く神凪ですら、同じように思ってしまうのだが。
神凪は、あらためて男達を値踏みする。あきらかに全員が水兵、下士官だった。遠目で階級章は見えないが、贔屓目に見ても一等兵曹が良いところか。
「いい加減にしないと、わたしにも考えがあるわよ!」
少女は、睨み付けながら言い放ったが、男は自分が軍人であるためか、それとも酒が入っているためか、ぞんざいな態度で言い返す。
「いい加減にしないと何だって?。俺達帝國海軍の軍人に何をするってぇ?ええっ?」
男が帝國海軍の名を口にした瞬間、神凪は飛び出した。
「貴様ら何をしている!」
神凪は、怒声に近い声をあげる。一瞬にして、水兵達と少女、そして遠巻きに見ていた人々の視線が神凪に集まった。そこには、目深に帽子を被り、色付眼鏡をかけた神凪がいた。彼は普段から、このような格好をしているわけではなかった。帝劇を出る時のみ、努めてこのような格好をするよう心掛けていた。こういった事件が起こらないとは限らないからである。少しは考えているのだ。たとえモギリであろうとも変装が必要だと。
「何だ、てめぇは。関係ない奴はすっこんでろぃ!」
突然出てきた神凪に、男は怒鳴り声で威嚇する。帽子と色付眼鏡で顔は良くわからないが、どう見ても自分より歳下の若造だ。吠えれば失せるだろう。男は、そう考えたのだ、が思惑通りにはいかなかった。
「関係無くはない!貴様らの所行、見すごせるか!」
「なんだとぉ、このガキィ」
「ふざけた事言ってると痛い目みるぞ、あんちゃん」
少女の手首を掴んでいる男が、神凪を睨みつけると、取り囲んでいた連中が、前に出て同様に威嚇してきた。だが、そんなものが通用するハズは無い。神凪は、色眼鏡ごしに睨みつける。
そんなやりとりに、少女は驚きの表情を見せ、周囲の人々は固唾を飲んで、状況を見守った。
「てめぇ、俺達が帝國海軍の者だと知ってて喧嘩売ってるんだろうなぁ。ああ!」
男の大声に、神凪は静かに応えた。
「それがどうした?」
神凪の発した低い声に、男達は、一瞬たじろいだ。若造とは思えない威圧感だ。
「お、俺達に逆らってタダで済むと思ってるのか!」
「だから、それがどうした。と言っている!」
再び発した声は、周囲の人間をも圧する力を持っていた。男は唾を飲み込んだ。
「てめえ・・・いったい何者だ・・」
まったく動じない神凪に、男は怯えの混ざった声で問う。神凪は顔を上げ、しっかりとした口調で言い放った。
「帝國海軍少尉、神凪近衛だ!」
「なっ・・・・・!」
神凪の言葉に、男達は絶句する。同様に、人々の表情も驚きに変わり、捕われの身の少女の目は大きく見開かれてた。
少女の手首を掴んでいた男は、あわててその手を放し神凪に向かい敬礼する。他の水兵も右に習う。皆、手が震え、足が震えている。それもそのはずである。軍隊において、階級は絶対である。たとえ、それが自分より歳下であってもだ。とは言え、階級の近い仕官同士、下士官同士でなら、時と場合により多少の反発が許される場合もある。また下士官の中には、善行章とよばれる勲章を数多く胸に下げている古兵もおり、オコゼと呼ばれ若い士官に一目おかれる者もいる。もっとも、そのような下士官は戦艦勤務の先任下士官などで、勤続年数も二桁を超える者であり、それ相応の貫禄と風格を有しているものである。
しかし、それでも士官と下士官の差は大きい。得にこのような場合においては、絶対的である。それも、突然現れた者は、若くして少尉の階級だ。酔っているとは言え海軍軍人である、水兵達にも目の前にいる少尉が江田島出のエリートだと推論するのに、さほど時間はかからなかった。束縛から解放された少女は、男達から距離を取り、成行を見守った。
「官!姓名!」
神凪は、姿勢を崩さずに、きつい口調で問う。
「は、はっ!帝國海軍二等兵曹、原滝平三であります!」
「帝國海軍兵曹、林田仁八!」
「帝國海軍兵曹・・・・・」
・・・・・・・・
水兵達は、次々と自分の身分を告げていく。皆、青ざめた表情をしている。非常にまずい場面なのだから、当然と言えよう。目の前にいる少尉そのものには、自分達を処罰する権限はない。そのくらいは誰にでも分かる事であろう。しかし、この少尉から上官に報告された場合、どのような厳罰が待っているか分からない。しかも酒が入っている時に、大人数で一人の少女を囲み乱暴を働いていたのである。どう見ても弁解の余地はない。
全員が言い終わると、水兵達は汗を流しながら、神凪の言葉を待った。咽を鳴らす者もいる。
「全員、気をーつけー!。そのまま待機!」
狼藉を働いていた者とはいえ、流石は軍人である。神凪の言葉に、一斉に手をおろし微動だにせずに身を固めた。
彼等を一瞥した神凪は、一列に並んだ前を横切り、少女の前にへと進み出た。
「あ、あの・・・」
一瞬、少女は身を固くしたが、神凪の口からでた次の言葉に安堵の色を浮かべた。
「お怪我はありませんか?右手を強く握られていたようですが・・・」
気遣うような顔をする神凪に、少女は微かな微笑みで返した。
「いえ、大丈夫です。なんともありませんから、気にしないでください」
「そうですか。それは良かった。しかし、真に申し訳ありませんでした。帝國海軍に身を置く者でありながら、このような無礼を働くとは、同じ海軍軍人として恥かしい限りです。弱輩者ではありますが、彼等の上官に成り代わって深くお詫びいたします」
そう言って神凪は、帽子を取り深く頭を下げた。この行為に、野次馬の中からは感嘆の声がもれた。
「か、顔をあげて下さい。何も関係ない少尉さんに頭を下げてもらうなんて・・」
深々と頭を下げる少尉に、少女はあわてふためいている。直立不動のままの水兵達も、驚いていた。軍人はよほどの事が無い限り、簡単に頭を下げぬもの。しかも、原因が面識もない下士官が起こした些細な不始末である。本来なら憲兵か警官を呼び、連行指示すればすむだけの話だ。被害者には、適当に二言三言、形だけの陳謝を述べれば良い。その程度の問題である。それを、若いとは言え、プライドの高い(一般にはこう思われている)エリート士官が少女に頭を下げる。そうそう出来る芸当ではない。水兵達だけに留まらず、野次馬連中も、神凪の度量の大きさを感じ取っていた。
そして、それは目の前の少女にも言えた。
充分、時間をかけて頭を上げた神凪に、少女は少し困ったような笑顔を浮かべ言う。さっきまでの気分はどこふく風である。
「こんな些細なことで頭を下げるなんて、変わった少尉さんですね」
「そうでしょうか?自分は当然の事をしただけだと思うのですが」
「ふふ、やっぱり変わった少尉さんです」
少女は、その面(おもて)に素直な笑顔を浮かべる。
「あの・・・ところで、あの人達はどうなるんですか?」
少女の質問に、水兵達は緊張した。厳しい懲罰への道が言いわたされるのだ。
「警察を呼び、海軍省まで連行して貰います。彼等には厳しい罰が下されるでしょう」
水兵達の顔が、これでもか、という程に青ざめる。予想通りとはいえ、覚悟しきれるものではない。そんな彼等の表情を見てか、少女はやおら振り向き神凪に言った。
「あの少尉さん?・・・あの人達の事・・・許してあげるわけにはいきませんか?」
少女の言葉に神凪は驚き、水兵達にも動揺が走った。まったく予想していなかった言葉である。
「え?、しかし、彼等はあなたに乱暴を働いたんですよ?やはり、それなりの罰は・・・」
「ええ。でも最初に余所見してて、ぶつかってしまったのは私の方ですし、それに少尉さんに謝ってもらったら、嫌な気分もどこかにいっちゃいましたから。だから、許してあげてくれませんか?あの人達だって、今この帝都東京で起きている怪異に不安なんだと思います。不安で、だからお酒を飲んで・・・・」
先程まで、あれだけ嫌がっていた相手に対して、一転して庇う少女に吉野等の影を見た気がした。
(そうだな。吉野くんや春蘭、それにセンカ達なら、同じように言うかもしれないな・・・人一倍にお人好しで、お節介で・・・暖かくて)
「ふぅ、そこまで庇われるのでしたら仕方ありませんね。今回に限り見なかった事にしましょう」
「良かった。話の分かる少尉さんで」
少女は安堵の笑みを浮かべた。そして、それ以上に喜んだのは当の水兵達である。懲罰を覚悟していただけに、嬉しさ百倍である。神凪は水兵達に向かって厳しい口調で言う。
「今回は、このお嬢さんの恩情に免じて不問にする。しかし、次に同じ行為を見かけた場合は、容赦はしないからな。覚えておけ!」
「はっ、了解致しました!」
「全員お嬢さんに陳謝と礼を!」
神凪が言うと、水兵達は一斉に少女に向かって振り向き、頭を下げた。水兵達の中で一番の上官である帝國海軍上等兵曹、原滝平三が代表して先んずる。
「無礼を働き、申し訳ありませんでした!」
「申し訳ありませんでした!」
「又、無礼を働いた我々に対し、厚い恩情をお掛け下さり、有難うございます!」
「有難うございます!」
原滝平三は生まれが悪くないのか、たまたま教養があるのか、なかなかの言い回しである。これには神凪も、多少の驚きを覚えた。
彼等が頭を下げたまま数秒たってから、神凪は再び口を開いた。
「全員、気をーつけー!・・ひらけ!」
神凪の言葉に、さっと蜘蛛の子を散らすように、水兵達は人込みの中へと消えていった。その彼等の見事な解散ぶりを見て、神凪は、人としてははなはだ疑問符が残るが、水兵としてはなかなかの連中なのかもしれないと思った。軍人たるもの、どんな命令であっても速やかなる行動が求められる。それが、些細な事であってもだ。解散といえば、即座に散り、休めといえば、即座に休む。どんな馬鹿げた命令であっても即行動、が下士官の学校である海兵団で叩き込まれるのである。これは、解散を命令して速やかに散れない者が、集合を命令し速やかに集合できるわけがない。という理屈からきている。なんだか変な理屈だが、軍隊とは、このようなものであるのだ。
水兵達がいなくなって、野次馬達も、自分のする事を思い出したのか、慌ただしく散っていった。神凪の周囲には少女一人だけが残っていた。
「本当にありがとうございました」
「いえ、礼を言われる事はしていません。ただ、海軍があのような連中ばかりでは無い、と思っていただけたら嬉しいですが」
「それは大丈夫です。実はわたしの知り合いにも、海軍の軍人さんが何人かいますから。それも、親友のお父様なんて大佐ですもの」
少女の言葉に、神凪は素直に驚いてみせる。
「へぇ、大佐とは凄いですね」
「ええ、とても優しくて素晴らしい、わたしの憧れのおじさまですわ。さっきも、そのおじさまに言い付けるわよ!って言ってやろうと思ってたところです」
「そうだったんですか、では自分が出て行く必要はなかったかもしれませんね」
神凪は、笑いながら言った。
「ところで、大きな鞄をお持ちのようですが、ご旅行か何かですか?」
神凪は、先程から気になっていた、傍に置いてあった洋鞄に目がいった。和装姿の少女には、少し不釣り合いな感じがする、かなり大きな荷物である。
「ええ、そんなところです。あ!そうだ、御迷惑ついでに、もしよろしかったら道を教えて頂けませんか?。実は東京に出てきたのは初めてでして、少し道に迷ってしまって」
少女はバツの悪そうな笑みを浮かべる。なるほど、余所見をしていて水兵にぶつかったというのは、道に迷っていたからなんだなと神凪は理解した。
「ええ、かまいませんよ。自分の分かる場所でしたらお教えします。近くでしたら案内して差し上げられるかもしれません」
「わぁ、有難うございます!良かった、親切な人に出会えて」
「とりわけ親切という程度のものではありませんよ。それで、何処に向かわれているのですか?」
「はい、あの大帝國劇場へはどうやって行ったら良いんでしょうか?。この近くの病院に用事があって、それを済ませたのはいいんですけれど、方向が分からなくなっちゃって」
少女の言葉に、神凪は一瞬言葉を失った。
「・・・どうかなさいました?」
「い、いえ、えーと。その大帝國劇場にはどういった用向きで?今日明日と休館日で、閉まっていますが」
「少尉さん。大帝國劇場に詳しいんですね」
「え、いや。まぁ、その・・・それなりに」
モギリをやっているとは言えない。帝國海軍の少尉が劇場でモギリとは怪しすぎる。しかし少女は、その秘密を隠し通せる相手ではなかったのであった。
「面白い少尉さんですね。これは親切にして頂いた少尉さんだから話すんですけど・・・・実は親友が、その大帝國劇場で女優をやってるんですよ。父の仕事の関係で東京まで来る用があったので、ついでに会いに行こうかと。今日、大帝國劇場に居るのは、しっかり確認とってますから休館日だろうと問題はありません!」
「いっ!ええ!!じょ、女優?」
神凪の頬に、冷汗が一雫流れ落ちる。
「まぁ、女優っていっても、今年の春に仙台から出て来たばかりで、まだ半年もたってない新人なんですけどね彼女」
「せ、仙台って・・・それじゃ、キミの親友って・・・吉野くん!?」
「えっ!少尉さん、吉野を知ってるんですか?」
「ま、まぁ、少しくらい・・・いや、かなり・・・・」
神凪は後悔した。大変後悔した・・・・・。
一人の女性を助けたのは後悔はしていない。ただ、その助けた相手が悪かった。まさか、真宮寺吉野の知り合いだったとは。
「もしかして、吉野の帝都での知合いの方ですか?うそ!ホント?。やだ、わたしって運が良いかも〜!」
一人ではしゃいでいる少女を、呆然と見つめながら神凪は(米田支配人に何て言い訳しよう)と、思いを巡らせるのであった。
「あ、自己紹介を忘れてましたね。わたし加藤真澄って言います。よろしくお願いします。神凪少尉さん」
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