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「は〜るに咲きます〜〜、希望のさ〜く〜ら〜」

 太正時代に流行した「さくら」の歌が空に流れていく。元帝國歌劇團「花組」の一員であった真宮寺さくらが、舞台で歌った歌だ。今では文部省推奨曲として幼年学校で歌われる事もあるという。
 優しい歌詞と心地よいリズム。今、「さくら」を歌っている人物は、さくらの娘の吉野であった。江戸川の土手を歩きながら楽しそうに歌っている。土手づたいには吉野以外の人影はなく、吉野の一人舞台である。
 長く続く道を一人軽やかな足取りで歩く。吉野が買物に出かけてからすでに2時間がたっていた。掃除道具を買いに行くだけで、これ程の時間がかかるのには理由があった。その理由とは、驚くべき事に銀座から江戸川を渡った市川まで『ホウキ』を買いに出たのだ。もちろん銀座近辺でも『ホウキ』程度は手に入る。が、しかし。市川、国府台にある『岡田屋』のホウキが大変丈夫で長持ちするという話を吉野は聞きつけたのだ。誰から仕入れた情報かは分からないが、ホウキのために遠出するとは・・・・変わった娘だ。

「うーん。ほんとうに良い天気・・・・誰か誘えば良かったかしら」

 歩を止めた吉野は、そんな事を考えながら青々とした草が映える土手を見渡し呟いた。
 青い空、白い雲。ときおり初夏の匂いを漂わせる陽気の中を、心地の良い風が通り過ぎ、頬をなでる。長く黒い髪が微かにたなびいている。
 しばらく遠くの景色を眺めていた吉野だが、再びゆっくりと歩き出した。赤い鼻緒の雪駄がしっかりと地面を踏みしめる。余談であるが、吉野は何故か雪駄を好んだ。足元を固めるという意味ではさくらのようにクツをはいた方が良いハズなのだが。
 と、その時、視界の片隅に一人の男が入ってきた。
 紺の着物に薄茶色の帽子、腰を屈め川の方を向いている。よく見ると、何かを観察しているようだ。

「あれ?・・・・あの人・・・何処かで・・・・」

 ふと吉野の頭にひっかかるものが生まれた。『以前、この人に逢った事があるような・・・』
 吉野は土手を下り、ゆっくりと男に近づいていった。この瞬間、買物の事はすっかり頭から消えてしまっていた。興味の矛先が変ると元の目的を忘れてしまう事がある。吉野の悪癖である。

「あ、あの・・・・」
「し〜〜〜〜〜〜・・・・静かに・・・今・・・良いとこなんだ・・・・・」
「え?」

 男は吉野が近づいてきていた事に気が付いていたのだろう、さも当然といった口調で、近づいてくる吉野に、静かにするよう促がした。しかし、誰が近づいて来たのか振り返って確認もしないとは、無警戒というか・・・・。

 男の見つめる先に何があるのか気になる吉野は、音を立てないよう、足元に注意を払い男の側へと進んでいく。

 「・・・・・・・と・・り?」

 男の傍まで来た吉野の目に写ったのは二羽の鳥だった。白い姿が美しい白鷺である。夫婦らしき二羽の鷺が江戸川のほとりで餌を取っているのだ。一羽の鷺が懸命にエサを探し、もう一羽が周囲を警戒している。片方が餌を取っている間に片方が警戒するといった行動は非常に珍しく、そうそうお目にかかれるものではない。いつのまにか吉野は純白の鷺に見とれてしまっていた。見知らぬ男と二人、鷺を見つめ続けている。

「・・・・うむ、良い構図になってきた」

 ふいに男が呟き、着物の裾から銀色の四角い物体を取り出した。カメラである。Leica MODEL 3d・・・世界で初めて映画用のフィルムを使用したカメラ、Leicaシリーズの後継である。元々はフィルムの品質テスト用として開発されたカメラであるが、あまりの評判に一般に向け製造販売されたという代物である。西暦1913年に発売された Ur-Leicaは、当時『家一件分の値段』で取り引きされていたという。今となっては家一件分程の値はしないが、それでも高価な物には違いない。Leicaとはそういう代物なのである。が、しかし、吉野にカメラの種類が分かろうハズもない。しかるに、男の手にしているカメラの機種なんてのはどうでも良い事である。・・・話がそれた、再び先に進むとしよう。
 一瞬、吉野の頭に『写真家かしら?』という考えがよぎった。前述した通りカメラは高価なものであり、一般人がそうそう手にできる代物ではない。その位なら吉野でも知っている事である。カメラを持っているとすれば、仕事に使うか・・・・道楽か。

「よーし、いいぞ〜〜〜」
『あ、この声、知っている声だ・・・・やっぱり何処かで逢った事があるんだわ』

 吉野は男の顔を見ようとしたが、帽子が邪魔をしてよく見る事ができない。
 コトン。小さな音がした。カメラのシャッターが落ちる音である。

「よし、良いシーンが取れた」
「あ、あの・・・」
「え?。ああ、そういや人がいたんだった・・・って・・あれ?君は確か・・・」
「・・・・・あ、あなたわ!」

 吉野は男の顔を見ると、立ち上がり叫んでしまった。同時に、鷺が飛びあがる。吉野の声に驚いたのだろう、高い声で鳴いた。警戒の声だ。

「おっと、警戒させちまったかぁ?」
「あっ、す、すみません。わたしったら・・」
「謝ってる場合じゃないよ。とにかくここを離れよう。いつまでもいたら彼等に悪い」
「は、はい」

 二人は急いでその場から離れていった。空を飛んでいた鷺は外敵が去ったと判断したのか、一羽が再び川へと降りた。しかし、もう一羽はまだ空を飛び警戒している。念には念をという事だろうか。

「よし。ここまでくれば良いだろう」
「本当にすみませんでした・・・・」
「ははは、気にする事はないさ。それに、謝る相手はあの二羽の白鷺にであり、わたしにじゃないよ。真宮寺吉野ちゃん」

 男は笑いながら言った。その笑いに嫌味は感じない。吉野が不用意に叫んだ事も怒っていない様子である。 

「名前・・・覚えていてくれたんですね輪墨さん」
「もちろんだよ。吉野ちゃんこそよくわたしの名を覚えていたね。吉野ちゃんと会った時、杉田さんが、遠くからわたしの名を呼んだだけなのに」
「あ、あの時は本当に失礼しました」

 吉野は大きく頭を下げる。また恥ずかしさが戻ってきた。思い出すだけで顔が赤くなってくるのを感じる。

「あの時と今の叫び声・・・・そそっかしいのは生まれつきかな?」

 カァ〜〜。頭を下げたまま吉野の顔が更に赤くなる。

「まぁ、でもそれが吉野ちゃんの魅力の一つなのかもしれないね。吉野ちゃんの母親、真宮寺さくらさんも結構そそっかしかったと聞いているし」
「えっ!どうして母の名を?」

 輪墨の言葉に吉野は勢いよく顔を上げた。母の名前は輪墨に告げていない。なのに何故彼は母の名前を知っているのだろう・・・。
 輪墨は笑いながら、吉野の質問に答えた。

「真宮寺吉野。二代目帝國歌劇團『花組』の一員。そして初代帝國歌劇團『花組』の一員だった真宮寺さくらさんの娘。帝劇を知っている者ならば常識だよ」
「帝劇を知ってらっしゃったんですか」
「ああ、一度見せてもらったよ。君の初舞台、白雪姫をね」
「ええ、そうなんですか!・・・やだ、恥ずかしい・・・」

 吉野は先程とは違う理由で顔を赤らめる。うーむ、顔を赤らめた美少女というは、なんちゅうか、こう・・・って、何をいってるんだ。先に進もう。

「実は友人に花組の大ファンがいてね、一度、彼に誘われ見にいったんだよ。なかなか面白い舞台だったよ」
「ありがとうございます。楽しんでいただけたのならうれしいです」
「君の演技もなかなか良かったけど、彼・・・神凪近衛も結構良い演技をしてたな・・・・たいした奴だ」
「・・・・・・?」

 吉野は輪墨の言葉の中に、何か不可思議なものを感じた。神凪に親しみを込めたような口調・・・・。『まさか・・・ね』

「ところで吉野ちゃん。今日はこんな所まで何しにきたんだい?」
「何しに?・・・・・あ〜〜〜!、いっけない買い物の途中だった・・・・あ、国府台の『岡田屋』に行く途中だったんです。途中で輪墨さんを見かけて・・・」
「好奇心で本来の目的を忘れてしまったと・・・・・。吉野ちゃんって、ほんと面白い娘だね。気にいったよ。ははははは」
「・・・・ぷっ。うふふ」

 理由はわからなかったが、笑いがこみあげてくる。

「ところで、輪墨さんは何をしてらっしゃったんですか?写真を撮っていらしたみたいですけど」
「ああ、仕事をしてたんだ」

 輪墨は吉野に見せるようにソデからライカを出した。

「写真家さんですか?」
「ん?まぁ、そんなもんだ。今日は桜歌新聞社の編集長に頼まれて帝都に住む野鳥の写真を撮っていたんだ」
「桜歌新聞って、あの帝劇びいきで有名な?」
「ああ、そうだよ。帝劇の情報ならどこよりも豊富だと言われている桜歌新聞だ」

 吉野の顔に笑みが浮かぶ。桜歌新聞の噂は大帝國劇場の人間なら誰でも知っているし愛読者も多い。最近では劇場が購入する新聞を帝都日報から桜歌新聞に変えようという意見も出ている程の人気ぶりである。自分達の事を褒めるだけでなく、厳しいが納得できる批評も乗せているのである。本当に帝劇が好きな人間が記事を書いているとわかる新聞。一般的な帝都新聞よりもそんな桜歌新聞を読みたいと思うのは当然だろう。

「今回、帝都に住む野鳥の特集を組む事になってね。それで生きた写真が欲しいと、わたしの所に話が回ってきたんだよ。それで、こうやって撮りに来たというわけだ」
「野鳥・・・・・。そう言えば、最近帝都から野鳥の姿が少なくなったと聞いてます」

 吉野は悲しそうな顔で、白鷺のいる方を見つめた。

「帝都に人が集まり栄えれば栄える程、帝都に住む動物が住む場所を追われていく・・・。その事に編集長が悲しんでね・・・『自然との共存を再認識しよう』という事から企画したらしい」

 この時代の日本は帝都のみならず、日本各地に存在する重要な軍事拠点となる地においては、帝都に優るとも劣らない都市計画を目指し開発が進められていた。しかし、その背景においては、そこに住む動植物が住みかを追われているのである。種として絶えてしまった生命も少なくなく、これからも姿を見せなくなる動物も増えていくだろう。だが、その凄惨な状況に心を痛めた人々もいたのだ。文筆家や芸術家が自然を愁い様々な活動をおこしている。会社ぐるみで自然保護に乗り出す桜花新聞社のような存在。彼等の力はまだまだ微々たるものであったが、人々の心にうったえ続けるのをやめる事はないだろう。

「でも、検閲とか厳しくないのですか?」
「それは厳しいと思うよ。この企画だって、すぐ軍の耳に入り『国家の方針に楯突く企画は許可できない!』なんて言われたらしいからね」
「そんな事を言ってきたんですか!。酷いですね」
「まぁ、色々とあったけど、編集長が軍の偉いさん方を相手に問答した末、なかば強引にこの企画を押し通したんだ」
「軍の偉い方相手に問答をするなんて、すごいですね」

 吉野は目を丸くして言った。軍の高官といえば、父や楠少将、女性士官であるあざみに米田中将という、どちらかというと親しみのある優しい人物というイメージを吉野はもっている。しかし海軍出身の神凪からは、吉野の父や米田中将達のような存在がマレであり、大部分が軍国主義の塊という恐ろしい人達ばかりだと聞いていた。輪墨の話に出てくる高官達はおそらく後者であろう。どうころんでも『国家の方針に楯突く』などという言葉が父や米田中将の口から出てくるとは思えないからだ。

「編集長の牛さんは一途な人だからなぁ。この企画の話をしている時、怖さを通りこしてしまったんじゃないかな。まっ、軍の偉いさん方が帰っていった後、腰抜かして動けなくなってしまったそうだがね」

 そう言って、輪墨は笑みをもらす。

「その度胸のある桜歌新聞者の編集長は牛さんと言われるんですか?」
「そうだよ吉野ちゃん。編集長の名前は牛原竹彦。わたしの数少ない友人の一人だ。そうそう、さきほど話した大の帝劇ファンというのも牛さんで、君のお母さん。つまり『真宮寺さくら』さんが舞台にあがっていた時からの筋金入りの帝劇ファンだ」
「ええ!母が舞台にあがってた時からの!」
「すごいだろう?彼がいるから桜歌新聞は帝劇びいきの新聞になっているんだ。牛さんの人生は帝劇とともに歩んで来たと言っても過言ではないな。帝劇そのものが牛さんの青春なんだな、きっと」
「へぇ・・・一度、お会いしてみたいですね」
「その言葉、牛さんに聞かせたら喜ぶよ。きっと」

 吉野の中に、牛という人物に会ってみたいという気持ちが膨れ上ってくる。自分の母の舞台を見た人。そして今日まで帝劇を愛し続けてくれた人。この話を花組のみんなに話したらどんな顔をするだろうか・・・・。

「ところで吉野ちゃん。買い物の方はいいのかい?」
「あ、そうですね、そろそろ行かなくちゃ。・・・・きゃぁ!もうこんな時間!」
「ほんと、牛さんの話に聞く、さくらさんそっくりだね。わははははは」

 銀色に光る懐中時計の文字盤を見て驚く吉野の様を見て、輪墨は声を上げて笑った。

「あっ・・・・・」

 一瞬、輪墨の顔が誰かの笑顔とオーバーラップした。ごく最近見たような笑い顔・・・・。

「どうかしたかい?」
「あ、いえ・・・なんでもありません・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・よし、わたしも買い物に付き合おう」
「え?」
「撮るものは撮ったし、これから何をするでなし。国府台の『岡田屋』はなじみの店だからね・・・・・っと、わたしなんかが一緒にいると迷惑かな?」
「い、いえ。一緒に来て頂けるのならうれしいです。色々と話がしたいですから・・・・」
「よし、決まりだね。それじゃ行こうか」

 輪墨は帽子を深くかぶり直して言った。

「はい」

 心地良いそよ風が草を揺らし、二人の傍を駆け抜ける。
 帝都の空はどこまでも青く広がっている。




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