第三話 運命の絆 前編
気がつくと、吉野はそこに立っていた………………
自分以外には誰もいない、何もない世界………………
果てしなく広がる世界には白から桜色に変化しながら流れていく空と灰色の地面がどこまでも続いている………………
自分以外には誰もいない、何もない場所………………
形有るものは何もなく、ただ遠くに地平線がつづいている………………
自分だけが形を持った者としての唯一の存在………………
ここにいるのは吉野一人だった………………
「ここ……は?……わたしはいったい……」
……記憶の一部が抜けている?……
……そう…………わたしは帝都に行くため列車に乗り……そして……
……サクラ?……桜の花?………
桜の花が頭に浮かんだとき、風とともに現れた桜の花ビラが吉野の身体を包みこんだ。
突然の事に髪を抑え目を閉じる。
…………音がする、風の通りすぎる音……。
…………どこか暖かい風の音……。
やがて風が止まり、吉野はゆっくりとまぶたをあけた。
紅(あか)!
吉野の目に再び飛び込んできた世界は先程までの白い世界ではなかった。
白かった空は透き通るような紅(あか)に変わり、灰色がかった地面はどす黒く濁った紅(あか)に変わっている。
「………色が変わった?………はっ!……こ、これは………!」
かすかに鼻につく、錆びた鉄のような臭いに吉野は息を飲む。
「この臭いは…………血の……に…おい」
背筋に寒気がはしる。
ザーッ……ザザーッ……ザーッ。
彼女の後ろで音がした。ラジオの雑音?……遠い故郷で聞いた音?。
振り向くと、いつからなのか焦げ茶色の一つの机がそこあり、見た事もない機械が置かれている。スピーカーがあり、チューナーのような調整機具がついていて、まるでラジオを大きくたような形だ。
音はそのスピーカーから流れていた。
吉野はゆっくりと机に近づいていく。
そして、その白い手が機械に触れようとした瞬間、人の気配を感じた。
「それに触れないほうが良いですよ」
「だれ!」
吉野は机から飛び退き、腰の刀に手をかける。
「すまない。どうやら驚かしてしまったようだね」
気配の現われた場所には細面(ほそおもて)の男が立っていた。
歳の頃は30代後半から40代前半。身長は170〜180といったところか。そのいでたちは着物姿に、後ろで束ねられた長い髪。
「あなたは?」
吉野は慎重に話しかける。
「ははは、そんなに警戒しなくても良いよ。かなり怪しい人物だが、危ない人間ではないからね」
「くすっ。なんですかそれ?」
男の言葉に、吉野の緊張は一瞬で解けた。
悪い人間には見えないし、邪気も感じなかった。
信じてもよさそうな人だと判断した吉野は、刀の柄から手をはなす。
「分かってくれたようだね」
「悪い人には見えませんから」
「ははは、それはありがとう。しかし、どうしてきみのような若いお嬢さんがここにいるんだい?ここは普通では入ってこれないはずなんだが……」
「わたしにも何がなんだか………ここはいったい何処なんです?気がついたらここにいて……」
「なるほど、故意にここに来たわけではないのか…………」
男は腕を組み言葉を続ける。
「しかし、そうだとするとお嬢さんがここに来るのは運命だったのかもしれないな」
男は少し悲しそうな目で、目の前に立つ少女を見つめた。
「運命?……それはいったいどういう事なんですか?」
「もうすぐ分かるよ……。それよりここが何処だか教えてあげよう。ここはね、ある青年の夢の中なんだよ」
「……夢?」
「ああ、夢だ。お嬢さんは青年の夢の中に、なにかのはずみで紛れ込んでしまったのだろう……」
男は机を見つめ、そうもらした。
「では、あなたもわたしと同じようにその人の夢に入ってきたのですか?」
「いや、私は違う。私は数年前からこの男の夢とともに歩んできた者だ。そしてこれからも供に歩んで行くのかもしれないな」
「夢とともに歩む?……」
不思議な男だ。話していても何か安心できる雰囲気を漂わせている。そう、まるで古くからの知り合いのように。
「……彼が来たようだ…………また……毎夜繰り返される悪夢がまた始まる………」
「え?……あっ!」
吉野は男の言葉に引っかかるものを感じながらも、机の方を見た。
いつ現れたのか、机の前には一人の男が背中をこちらに向けて立っていた。
海軍士官服である純白の軍服を着た青年将校である。
「……なにか叫んでる……?」
確かに男は叫んでいた。狂ったように激しく、机を叩きながら。
「でも……声が聞こえない……」
「声が聞こえないのは耳で聞こうとしているからだ。耳で聞くのではなく、心で聞いてみなさい」
着物姿の男は叫び続ける青年将校を見たまま、そう吉野に告げる。
「心で聞く……」
吉野が心に意識を向けたとたん多くの音が頭の中に流れ込んできた。恐怖と苦しみに満ちた悲鳴、醜悪な魔物の声。そして……青年将校の悲痛な叫びが頭の中に響きわたる。
『やめろおおおおおおおおおっ!やめてくれえええええええっ!』
ヅガガガガガガガガガッ
[き、効かない………こ、この、この、この!……う、うわあああああ!たいちょおおおおおお!]
グチャッ、ブチッ
<クウォオオオオオオオッ>
『いしやまああああああっ!』
「うっ!」
吉野は両手で口を押さえた。
青年将校が叫ぶと同時に、機械の隙間から鮮血が吹き出してきたのだ。
白い軍服がみるみる紅く染まっていく。
[た、たい……ちょ……う。あ、あとは、たのみ……ま……した]
『金井!?や、やめろ!逃げるんだ金井!』
[………隊……ふ、副長……ハアハア……金井 勝利……いざ…まいる!うをおおおおおおお!]
『かねいいいいいいっ!』
バシュウッ……グヂャッ……
「あ……ああ……」
「彼は……ある事件により部下を魔に殺された………それが悪夢となって毎夜彼を苦しみ続けている」
「こんな夢を毎晩……………あっ!………さっき言いましたよね!数年間この人の夢と歩み続けてきたって!」
吉野は着物姿の男を仰ぎ見た………
着物姿の男は重い表情でうなづいた。
「そんな………」
吉野の足元にひと雫の涙が落ちる。
一人の青年が背負うには、あまりにも重く残酷な運命に胸が締めつけられる思いだった。
「本来なら精神が一月ともたないだのだろう…………しかし彼は耐えた、耐え続けた。怒りをその身に秘め幾年も………仲間の仇をうつために……」
「仇!……それじゃあ、その時の魔はまだ!………」
「ああ、まだ生きているはずだ…………倒されたという話は聞いていない」
「……でも、なぜ…………!」
ふいに目の前の青年将校の姿が薄らいだ。
青年将校だけではない、紅い世界そのものが次第にその色を失っていく。
「え?どうしたの?」
「どうやら、お嬢さんの精神がこの夢の世界から出て行こうとしているのだろう」
着物の男も次第にその色を失っていく。
「待ってください!わたし……わたしはどうしたらいいんですか?このままだとあまりにも悲しすぎます!」
「ふふふ、私の思ったとおり優しい娘だな。……真宮寺 吉野」
「!?」
突然名前を呼ばれた吉野は、男の顔を凝視した。
「どうして私の名前を!あなたはいったい」
「道は必ず開ける。その時は彼を信じてくれ。彼はいつも一人で戦ってきた……。たのむ彼の力になってくれ。さくらもそれを望むはずだ」
「お母さんの名前まで!……あなたは、あなたはいったい!」
吉野の声は白い世界に溶け込み、そして世界は閉じていった。
「よ、吉野が……ハアハア ……元に戻ったって本当か?」
荒い息をはきながらセンカはさつきに詰め寄った。
「セ、センカさん。ちょ、ちょっと落ち着いてください。ここは病院ですよ」
「あ、わりい。あわてていたもんで。っと、それより吉野の事だ!元に戻ったのか?」
センカはさつきの両肩を掴みさらに詰め寄る。
「は、はい。まだ目覚めてはいませんけど、沈んでいた精神が正常になったそうです。……でも、どうしたんですその汗?、息も上がってるし」
「いやなに、帝劇から急いで走ってきただけだ」
そう言いながらセンカは額の汗をぬぐった。
「て、帝劇から走って?!」
「おう、15分とかからなかったぜ」
さつきは心底驚いた。それもそのはず、帝劇からここ廣小路病院まで約5キロ、速度で言うと時速20キロ以上で走り続けてきた事になる。さらにつけ加えるならば、目の前に立つセンカにはまだ力がありあまっているようにさえ見える。脅威的なスピードと持久力と言えよう。
「そんなに急いでくるなんて、本当に心配してたんですね」
「ったりめーだろ……これから同じ釜のメシを食う奴が助かったって聞いたんだ。……ちんたら走ってられるかよ」
まだ息が荒いが、その表情に疲れの表情はなく、安堵と喜びの笑顔があった。
ブロロロロロ、キキィッ
病院の前に蒸気四輪の止まる音が二人の耳に入ってくる。
「あっ……うっとおしい奴がきやがったか?」
センカはそう言って表に続く扉を見る。
「病院に付きましてございます。お嬢様」
「ありがとう浮田」
車の後部座席を老紳士がドアをうやうやしく開ける。
黒塗りの車は『TA2型フォード』。最新式のV8蒸気エンジンを搭載した蒸気自動車だ。
「ではお嬢様。一時にもう一度お迎えにあがります」
「ええ。たのみましたよ浮田」
老紳士はこれでもかという位に頭を下げ、彼女を見送った。
ロココ調の扉がゆっくりと開く。
「あ、れいかさん。れいかさんも来られたんですね」
「けっ、こなくてもいいのによ」
センカはれいかに聞こえないようにつぶやく。
「センカさん。なにかおっしゃりまして?」
「いや、なにも……。それよりおめえの乗ってきた車、いつもの派手なやつじゃねえじゃねえか。自慢の神崎自動車製の蒸気自動車はどうしたい。欠陥でも見つかったのか?」
半分皮肉まじりに言ったつもりだったが、それが逆効果だった。
「神崎自動車製の蒸気自動車に欠陥などありませんわ。でも、いつものと違うと良くお分かりになりましたわね。あの車はアメリカが誇るフォードがつい先日発表したばかりの最高級車ですのよ。わたくしのバースデープレゼントにフォード会長からいただきましたの。会長がこの神崎れいかのファンだったなんて、わたくしの名前は海のむこうでも有名ですのね。オーホッホッッホッホッ」
れいかは気付いていないが、病院内での高笑いは不気味以外のなにものでもない。
「あ、あのれいかさん?病院では大きな声を出してはだめなんですよ」
「あら、そうでしたの。わたくし病院という所にきた事がございませんから知りませんでしたわ。なにしろ屋敷には主治医がおりますから」
「はいはい、れいかの自慢話は聞きあきたっての」
センカはあきれ顔で言う。
「なにが自慢話ですか!……ま、まあ、山猿にはそう聞こえるのかもしれませんわね」
「なんだと!だれが山猿だ!」
センカとれいかは顔を近づけ睨みあう。二人の母親を知る人がみると、若き日のすみれとカンナを思い出す光景であろう。
「二人とも!病院内での喧嘩はやめてください。そもそも喧嘩しにきたわけではないでしょう」
「おっと、いけねえ。そうだったそうだった」
「そ、そうですわ。吉野さんの具合を見にきたのでしたわ。それで吉野さんはどちらに?」
「ふー、こっちです。くれぐれも喧嘩はやめてくださいよ」
さつきはこみあげる怒りを抑え、ききわけのない二人に念を押した。
「あ、あたいは別に……」
「わたくしは喧嘩などしたくありませんのよ。でもセンカさんが……」
「おいこら!人のせいにすんなよ。けしかけてくるのはいつもおめえじゃねえか」
「なんですって!いつわたくしがけしかけ……」
そう言いかけたれいかは冷たい視線に気が付いて、慌てて口をとじる。
「………出ていきますか?」
「……は、はははははは………」
「……お、おほほほほほ………」
さつきの目には殺気に似たものが漂っていた。
「うーん。確かこの辺りのはずなんだけどなー…………」
上野公園から少し離れた廣小路町の大通りで一人の青年が何かを探すように辺りを見回していた。
白い軍服を着ているところを見ると、帝国海軍の将校であることが分かる。目つきは鋭く、模範的な物腰の優秀な軍人……という風には見えず、どちらかと言うと「劣等生」……少なくとも海軍士官学校においては、そう呼ばれてもおかしくないような印象の青年だ。ただ初々しさの残る、どこか憎めない感じがする事だけは付け加えておこう。
(しかし、配属先に着くなり『病院に中将がおられるからそちらに行ってください』……なんて、かなりアバウトな部署らしいな帝國華撃團って所は………まあ、自分にあってるかもしれないな。しかし、何故病院なんだ?華撃團本部にも最新の医療施設が整っていると聞いていたんだけど……)
「まあ、考えていても始まらない。しかし……確かにこの廣小路町の近くだと聞いていたんだけど。どこでどう間違ったのかなあ?」
上野公園と不忍ノ池からすこし離れた所に廣小路町はあった。
上野駅と上野糸路の境に位置するこの場所は、帝都が平和である事を象徴しているかのような賑やかさである。
青年は今、その廣小路町にある廣小路病院を探しているのである。
そこそこ大きな病院と聞いていたのだが、あたりにはそれらしい病院は見当たらなかった。
「しかたない、人に聞いてみるか……。すみません、少々道をお訪ねしたいのですが」
青年は近くにいた男に声をかけた。
「はい、なんでしょう……あ!わ、わたしは何も見てません。公園で何があったかなんて知りません!」
男は青年の格好を見た瞬間、怯えるようにその場を去っていった。
呆然とする青年だったが、何かに思い当たり不忍ノ池から上野公園へと少し視線を向ける。
「そういえば、昨日上野公園、不忍ノ池で怪物騒ぎがあったんだったな。そうか、自分もあの連中の一人と間違えられたのか」
青年は苦笑しながら遠くに見える上野の森を見た。大きな森のある公園の周囲には警官と帝國陸軍の兵卒が立ち並び、入り口を封鎖しているのが見える。
(花小路伯爵から、一人の少女の活躍でかろうじて死人が出ずにすんだと聞かされていたんだったな……しかし、そんな怪物を倒すなんて、少女じゃなく実は筋肉質の大柄な女の人じゃないのか?……………いや、帝國華撃團の人間なら小柄な少女だとしても納得はいくな)
「っと、こんな事を考えている場合じゃなかった。病院病院っと。……ん?……なんだ?何を騒いでいるんだ?」
上野の怪物はひとまず忘れる事にし、再び病院を探し始めたした青年は、周囲の人々が一つの方向を指差してなにやら騒いでいるのに気付いた。
「な、なんだあれは」
騒ぎの原因はすぐに分かった。大通りを遥か向こうから大量の水蒸気と砂埃りを撒き散らしながら何かが近づいてきているのだ。
「蒸気二輪?……まさか……」
蒸気二輪にしてはあの水蒸気の量は多すぎる。道の半分を蒸気が覆っている。まるで蒸気船並の量だ。
「ひ、避難したほうがよさそうだな」
そう思った青年は、大通りの端に身を寄せた。ほかの人々も同じように端に非難している。
次第に近づいてくるにつれ、それが蒸気二輪だと確証した。しかし、彼の記憶にはない形で軍用でもない、かなり大きな蒸気二輪だ。そしてなによりも…………
「は、速い」
離れていたときには感じなかったが、近づくにつれその蒸気二輪が非常識な速度で疾走…………いや、爆走しているのが分かった。そして、その遥か後ろに帝國陸軍の蒸気二輪が後を追っているのも見えたが、捕まえる事はできないなと青年は思った。前を行く蒸気二輪は圧倒的に軍のそれを凌駕しているのである。
そうこうするうちに、非常識な蒸気二輪が今まさに目の前を通り過ぎていく。
「ひゃあああああぁあぁあぁ!と、とまれえええええ!」
悲鳴?そう悲鳴だ………目の前を通り過ぎる瞬間、青年の耳には確かに聞こえたのだ、若い女性の悲鳴が……。
「………………暴走……だな…………」
青年は白い蒸気を残して走り去っていった方角を見つめ、ひきつった顔でそう呟いた。
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