第一話 花の名は吉野
「たぁぁぁぁぁぁっ!」
カナリヤを思わせるような吉野の声が、道場に響きわたる。
早朝稽古の一本勝負。
その中で、師範との最後の一本を締めくくるのが、門下生の吉野であった。
「めぇぇぇぇぇぇぇん!」
吉野は掛け声とともに低い姿勢からの唐竹割りをはなつ。
切っ先が小さな円をえがきながら師範の脳天を襲う。
だが、師範は剣先を鍔元で受け止め、勢いを殺し間合いを取る。
剣舞の如く、力強く美しい剣技。
流派名『北辰一刀流』。幕末に隆盛を誇った一派で、現代剣道の礎となった剣術である。
そして、この二人こそ『北辰一刀流』の剣術と精神(こころ)を受け継いだ者と、受け継ぐべき者であった。
始終、攻めている吉野は、少女と言っていい年齢だが、若いなりにも太刀筋は鋭く、かなりの剣捌きである。一本勝負の最後を務めるに申し分のない腕前だ。
かたや、吉野の鋭い攻めを受け続けている師範は落ち着いた感のある女性だ。
「えいっっっ!」
吉野が一歩踏み込み、胴を狙うが師範はたくみな足さばきと身のひねりのみで難無くかわす。
師範の腕前はすでに達人の粋に達している事は間違いないだろう。それも、数々の修羅場を潜り抜けて培った本物の剣術家である。
胴をかわされた吉野は、つづけざまに竹刀を返し、切り上げる。
しかし、吉野の動きを読んでいたのか、師範の身体がゆらりと動き……
間合いが詰まる!
「胴」
気合いのこもった声とともに、竹刀が吉野の腰に吸い込まれていく。
一瞬の出来事だった。
吉野の切り上げに合わせ、体を滑らせるように一足飛びで胴を薙払ったのだ。
「左胴一本!勝負あり!」
立会役の力のこもった声のもと、勝負はついた。
「切り上げの踏み込みは良かったわ。でもその前の返しに隙があるわよ、吉野」
礼を終えた後、勝負を制した師範が優しいまなざしで、面を外した吉野にそう忠告した。
「ありがとうございます。以後、気をつけます。真宮寺師範」
荒い息づかいながらも、はっきりとした口調で吉野は答えた。
その言葉を確認した真宮寺師範は軽くうなずくと、上座にすわり姿勢を正す。
門下生もそれにならい、端座(たんざ)の姿勢で師範の前に並んだ。
「今日の早朝稽古はこれで終ります。各自、今うけた忠告を頭にとめておいてください」
「礼!」
姿勢を正した吉野が、声をあげる。
「ありがとうございました!」
静かだった稽古場(けいこば)に、若々しい声が響きわたる。
真宮寺師範は軽く頭を下げた後、微笑みを残し稽古場をあとにした。
北辰一刀流の師範であり、真宮寺を名乗るこの女性は、白のうちかけに蘇芳色(すおういろ)の袴、艶やかで長い髪を背中で束ねただけの、いたってシンプルな格好をしていた。年齢を公表すると本人は渋い顔をするので割愛させていただくが、外見においては、まだ二十台後半でも十分通用するほどの、近所でも評判の美しさだ。
昔、恋を知り始めた少女の頃、演劇の舞台に立っていたという経歴も、若さに関係しているのではないか?などの話も語られている。
その彼女が立っていたという舞台は、あの大帝國劇場であった。
希代の天才作詞家『加島 一ノ橋』先生が十数年前に発表し大流行した歌「華つむじ」の歌詞「不治の病に倒るとも、観るまで死ぬるか、ああ帝國歌劇」にもある、あの帝國歌劇だ。
彼女は若き青春の日々の情熱を舞台に捧げ、そして多くの人々に夢と希望を与えたのである。
現在は、故郷『仙台』で、幼き日より歩み続けた剣術の指南役として、愛する夫と供に幸せな日々を送っている。
彼女の名は『真宮寺 さくら』
かつて幾度となく現われた魔を退けた帝國華撃團「花組」の一員だ。
さくらにとって舞台とは帝國華撃團とは、人生の中で初めて手にした仲間との永遠に消えることのない絆なのかもしれない。
「毎朝大変だね。さくらくん」
道場から母屋に向かう廊下の途中で、庭から一人の男がさくらに声をかけてきた。
「あ、あなた!。いつお戻りになられたんですか?たしかお帰りは明日だと……」
さくらは夫の突然の帰りに驚きながら訊ねた。
「楠少将が気をきかせてくれてね、特別に休暇を早めてくださったんだ。たった今帰ったばかりだよ」
「まあ、それは良かったですね。吉野が喜びますわ」
「ああ、本当なら入れ違いになっていたのだからね」
彼はそう言いながら、賑やかな道場の方を見る。
「明日、発つのか……もう、当分一緒に稽古する事はないな」
「そうですね……、吉野も今年で十五、剣の腕は日に日に上がってきてますわ。私でもたまに打ち負ける事がありますから」
「ほうそれはたいしたもんだ。でも、それでも勝つのは君なんだろ?」
まるでいたずらっ子のような口調である。
「からかわないで下さい。それに、いい加減「さくらくん」はやめて下さい。吉野はともかく他の人に聞かれたら恥ずかしいじゃないですか」
「あ、すまない。気を付けてはいるつもりなんだが、つい昔の呼び方をしてしまう。君と初めてあった時からそう呼んでいたからね」
さくらは、彼のこの少しこまった様な顔が好きだった。
さくらが彼と出会った頃と、変わらない彼がそこに居るからだ。
「そう呼んでいただけるのは嬉しいですわ。でも人前では気をつけてくださいね」
「ああ、人前では特に気をつけるよ」
そう言うと、彼は愛すべき妻にかるく接吻した。
………羨ましい奴だ。
「もう、あなたったら、こんな所を人に見られたらどうするんですか」
「大丈夫、誰も見ていないよ」
彼が口を開いた時、後ろの方で音がした。
「お父さん?!」
「よ、吉野!」
(しまった!見られてしまったか!)
「や、やあ、ただいま」
「ただいま……って、どうして今家にいるの?明日の夜にならないと帰らないって……」
吉野は『父に何かあったのでは』と思い、心配そうな顔でたずねた。帰宅の日時は前もって知らせてくれる父だが、告げた日時よりも早く帰ってきた事はいままでになかったからである。
「実は、吉野が明日の朝、発つことを楠少将が知っておられてね、休暇を一日早めてくださったんだよ」
「楠のお爺さまが?わたしのために!」
かすかな驚きとともに、吉野の顔が喜びの表情に変わった。
「そうだよ。楠少将がおまえのために帰ってやれって言ってくれてね。今さっき家に着いたところだ」
「それじゃあ、今日は一日いっしょにいられるのね!」
「ああ、今日は一日いっしょにいられるぞ」
「あら、その前に「軽くひと眠り」なさるんじゃないんですか?」
さくらは笑いながら、先程からかわれた仕返しとばかりに反撃にでた。
「え?、あ、読まれてたか。ははは」
「あなたは帰ってくると、いつもそう言いますから」
「そういえばお父さんって、家にいる時はいつも眠てばかりいたね」
さくらの言葉の後に、吉野が追い討ちをかける。父親の威厳も何もあったものじゃない。
「おいおい、それでは私は役立たずのぐーたら親父みたいじゃないか」
「『みたい』じゃなくて、その通りでしょう?。いつも家を開けて、家の事は全て私に押しつけているんですから」
さくらの目が『ジト目』に変わる。
「いや、それは仕事が……」
「弁解はいいです!」
「そう、弁解はいいです!」
妻と娘の「弁解はいいです」攻撃の前には、彼もなす術がなかった。
「……ぷっ、あはははは!」
「うふふふ」
「………は、ははは」
一瞬の沈黙の後、吉野が笑い出すと、二人もつられて笑いだす。
久しぶりの家族のやり取りだ。
それだけに、妙におかしかった。
「ごめんくださーい」
突然、玄関の方から声が聞こえてきた。
「おや、お客さんのようだね」
「あ、この声、真澄(ますみ)だわ」
「真澄さん?、吉野あなた真澄さんと約束でもしてたの?」
「ううん、してないわ。何の用かしら」
「吉野の友達か……うん、丁度良い。これで昼まで寝てられそうだ」
ぐーたら親父の烙印を妻と娘に押された男は、助かったという顔でそう言った。
「やっぱり寝るんですね」
「ははは、……。ほらほら吉野、友達を待たしたらダメだろ」
ジト目のさくらと、目を合わないように吉野の背を押した。
「もう、お父さんったら……。まあいいわ、朝は真澄に免じて許してあげる」
「ありがとう、吉野」
「でも、昼からは私の相手をしてね。絶対よ」
念を押しながら吉野は玄関に向かった。
「やれやれ、娘にまであんな風に言われるとはな」
「あら、娘にまでって、それじゃあいつもは誰に言われているんですか?」
さくらはからかい半分で詰め寄った。
日頃相手にしてもらえない鬱憤(うっぷん)が噴き出しているのがありありと見える。彼は当分の間、頭のあがらない日々を送る事だろう。
タッタッタッ
誰かが玄関から走ってくる。
「なんだ?」
さくらの詰め寄りから解放されたあわれな男は、玄関に続く廊下の角を見た。
廊下の角からひょいっと吉野の顔があらわれる。
「言い忘れていたけど、廊下であんなことしない方がいいと思うよ」
少し顔を赤らめた吉野は、そう二人に告げると。パタパタと玄関へ走っていった。
カコーン
庭の角に設けられた獅子脅しが鳴り響く。
廊下では、ひじょうに仲の良いと評判のオシドリ夫婦が真っ赤な顔をして硬直していた。
「おはよう、真澄」
「あ、吉野。おはよう」
玄関を開けると、そこには親友の真澄が立っていた。
「こんな朝からどうしたの真澄?」
「うん、母がね、おはぎを作ったからおすそ分けにって」
「わあ、わざわざありがとう」
吉野は礼を言って、若葉色の風呂敷きに包まれた重箱を受け取った。
「別に礼なんていらないわ。母も好きで作ってるんだから。それに、近所におすそ分けしないと、あたしや父が全部かたずけないといけないのよ。そんなに食べてたらあっという間に太っちゃうわ」
「あはは、それは困るわね」
真澄の太った姿を想像して、思わず笑ってしまう。
「笑い事じゃないわよ吉野。あたしにとっては深刻な問題なのよ」
「ごめんなさい。つい想像しちゃって」
「ふぅ、吉野はいいわよ、太りそうにないから」
「どうして?」
「どうしてって。あなたのお母さんを見てたらわかるわよ。吉野ってどこから見ても母親似ですもの」
「お母さんは特別よ。あの身体をどうやって維持してるのかわたしが知りたいくらいだわ」
吉野の言う通り、さくらの体型は舞台を降りた頃とさほど変わった所はなく、あえて言うなれば、吉野を生んでから少しふっくらしたかな?といった感じだ。しかし、あくまでそれは、さくらの昔をよく知っている人が見ればの話である。
強い霊力をそなえ、破邪の力を持つ真宮寺の血族は、戦える身体を長く保つために、衰える速度が常人より多少遅いのだ。なおかつさくらは日々剣術の鍛練を怠っていないので、二十代とも思えるの身体を維持できるのであった。
……さくらを妻にした男は果報者である……まったくもって羨ましい!。
「まあ、わたしのお母さんの事を話しても始まらないけどね」
「そうね、人の事を気にするより自分の事を考えるべきね。」
「人の事より自分の事……か」
吉野の頭に重い考えがよぎる。
「どうかしたの?吉野」
「う、うん。なんでもない」
「そう、それならいけど……。それでさ吉野!これから買い物につきあってくれない?」
「買い物?」
「ええ、ちょっと新しい髪かざりが欲しくて。一緒に選んで欲しいの」
「うん、いいわよ。じゃあ、ちょっと待ってて、おはぎ置いてくるから」
そう言って吉野は家の中に入っていく。
「……吉野には何が似合うかしら」
一人になった玄関先で、真澄は吉野のことばかりを考えていた。
チーン、チーン、チーン
路面蒸気車両がゆっくりと進んで行く。
周囲には、レンガ作りの建物が立ち並び、人々の往来と昨今増え始めた蒸気式四輪車が賑やかな町を作り出していた。
洒落た喫茶店でお茶を楽しむ男女や、商店のドレスをガラス越しに眺め歩いている女性など、仙台にもようやく帝都の趣(おもむき)が定着しはじめていた。
「吉野!ここで降りるわよ」
駅近くの交差点に差しかかろうとする所で、真澄は吉野に降りるよう言った。
「わあ、こんな店ができていたのね」
「つい最近できたばかりの店で、『伊勢屋』よ」
そこは、主に飾り細工や宝飾品を扱う店であったが、若い女性にも気軽に入れるようにと、値段を押さえた物ばかりを販売している店であった。
「すごい人……」
店の中には沢山の客で賑わっていた。宝飾店にしてはそこそこ大きい間取りと通路なのだが、それでも歩くのには困難を要した。
「今はまだ空いている方よ。昼過ぎになったら、今の倍の人数になるわよ」
「ば、倍?」
今でさえ通路が狭くて通りにくいのに倍になったら……。
考えただけで恐ろしくなる。
「吉野!こっち」
「なに?あ、奇麗」
「千寿漣衣の簪」(せんじゅれんいのかんざし)よ。これどう思う?」
「良いと思うわ。真澄に似合うわよ、きっと」
箱から出して見せてもらう。
緩やかな円を描きながら、途中で格子状の模様につながる飾り気のない簪(かんざし)だが、真澄の髪にさすと似合う気がした。値段は決して安いとはいえないが、それでも買えない値段ではなかった。
「吉野はどうなの?自分に似合うと思う?」
「わたし?わたしに簪は似合わないわ、お母さんが似合わないから」
「ふーん、そう言えば吉野のお母様って飾り物はあまりしないわね」
「髪をまとめる紐くらいが、唯一のお洒落だと思うわ」
「紐……ね、まあ吉野のお母様はなにも付けなくても充分奇麗だしね」
ついでに言うと、作者も宝飾品は好きではない。え?お呼びでない。こりゃ失礼しました……。
「前にお父さんの知り合いのおじさんが、こんな事を言っていたわ「どんなに磨き上げられた宝石も、安っぽい銀箔で覆(おお)ってしまっては意味がない」って」
「へえ、そのおじさん良い事言うわね」
「うん。「高価で奇麗な飾りも、似合わない人には似合わない。安く簡素な飾りでも着けるべき人が着ければ、最高の飾りになる」とも言ってたわ」
「教訓ね。じゃあ、この簪は吉野には似合わなくても、わたしには似合うって吉野は思うのね?」
手の中の簪を見つめながら吉野にたずねる。
「ええ、真澄が着ければ似合うと思うわ」
「そうか、吉野がそう言ってくれるのなら……。決めた!これにするわ」
真澄は大切そうに、簪を店の主人にわたした。
「吉野は何か買わないの?」
「わたし?わたしはいいわ。今、使うわけにはいかないお金だから」
「はぁ?なんなのそれ?」
「う、ううん。なんでもない」
「変な吉野……。まあいいわ。それじゃあ、私がなにか買ってあげる」
「え?!いいわよ。そんな気を遣ってもらわなくても」
「いいから、いいから。付き合ってもらったお礼よ」
「う、うん」
吉野は迷っていた。やはり言うべきなのか……と。
言わないと決めていた事を……。
「吉野。これなんかどう?『赤いリボン』。たしか前まで着けてたわよね『赤いリボン』」
「ええ、お母さんからもらった物だけどね。かなり昔の物だから色焦ちゃって、今はタンスの奥にしまい込んでるわ」
「ふーん。それで変わりに『青いリボン』を着けてるわけか」
「まあ、そうなるかな」
真澄は少し考え、手に取った『赤いリボン』を店主に差し出した。
「このリボンもお願いします」
二人は店を後にした。
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